人間、ちゃんといつも課題が用意されているものである。一つ階段を登ったと思えばちゃんと次の段がある。そう思うと、人生とは修行、と言う言い方も肯ける。いかに楽しんで修行をこなせるか、などと言い換えると不謹慎にも聞こえるが、そう考えている。人間として、日々自分が成長しているかどうかは、自信を持ってyesと言い切れないのが切ない所ではあるが、子供の時分に比べれば、分別はある、と思う。多分。
今日、義母さんに、人生、ちゃんと全部味わって、感じて死ぬようになっている、と言う話しをしてもらった。楽しい事も、苦しい事も、ちゃんと味わって、そうでなければ死ねないようになっている、と。私は色々あったから、健やかに逝けるはずだ! と。
こんな話になったのは、別にお盆だからではなく、次男と揉めたり、なんやかんやで悩んでいたからなのだが、その観点だと嫁的には私はこのまま行くとのたうちまわって死ぬ事になるらしい。あなたはしんどい事をもう少ししんどいと思った方がいい、と。
なんか俺、そこだけ切り抜くととてもいい人そうなので、そこだけ切り抜いて記したが、その都合のいい切り抜き方によってしんどさを感じにくくしていると言うのも事実だろう。
ただ、やはり、有難いとしか思えない環境なのである。
世界は新型コロナウィルスで大騒ぎで収束の目処もついていないし、地方は高齢化の波に押しつぶされていくし、父はなかなか共感できない価値観の持ち主であるし、長男はヘナチョコだし、次男は感情のコントロールが出来ないし、飼い犬は未だに無駄吠えするし、夏の終わりかけは花粉症がひどくて点鼻薬を手放せない、挙げ句の果てに今日は差し歯が取れた。
でも、地元にいながら仕事をさせて貰っているし、仕事仲間も素晴らしく、妻は人十倍頑張り屋さんで、私の欠けている部分を埋めて更にプラスにしてくれているし、長男は素直で人が大好きで、次男は誰よりもパワフルな感情と、細マッチョな体を手にしており、何かに悩めば妻の母やお姉さんが親身になって相談を受けてくれる。
今晩は子供達と犬は義母さんの家にお泊まりになった為、とにかく静かで、耳を澄ませば鈴虫の声が聞こえて来る。その中でアイスコーヒーを煎れる様を妻が携帯で真剣に録画している。もう少し耳を澄ますと父が自室で脳トレをしている音が混じって来るのだが、ご愛嬌だろう。
幸せだと思う。幸せとは、感じるもので、どう感じるか、それだけで総量が変わってしまう。幸せだと思える環境が先なのではなくて、環境を幸せだと感じることが出来る心の在り方がとても大切なのだと思う。そりゃ、程度は在るけれど。
苦しみもきっと同じ。
そう言った意味では、私は幸せになりやすいお手軽な人なのだろう。
女性陣は私みたいな人を見つけると、幸せにすると言う意味ではだいぶチョロいので、おすすめである、とか書くと、嫁に、私が頑張っていないみたいじゃん、と言われそうなので、最後に妻に対する感謝で締めくくることにする。
妻よ、いつも本当にありがとう。俺の幸せの根っこにはいつもあなたが在るよ。
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