妻から電話があり、知っている方が亡くなったとの事。原因は定かではないが、どうやら本当らしい。
その方と知り合った経路は少し複雑なのだが、二人姉妹をもつ専業主婦の方で、わんぱくな大きなトイプードルを一匹飼っていた。長女には知的障害があり、ご自身も病気を持たれており、次女は環境からか医者を目指し、市立中学の特待生として勉学に励んでいた。
何度かお会いしたことがあるが、旦那さんも優しそうで、お母さんもお姉ちゃんも含みなく良く笑う方達で、妹は英語のスピーチコンテストでお姉さんの素敵な笑顔について語っていた。
旦那さんは少し遠い所で働いており、毎日帰っては来るが家庭を回せるわけではない。お母さんが亡くなったら、一人でお風呂にも入れない長女は、どのようになるだろう。グループホームを探す? 一人で大人しく待っていられないトイプードルは? 医者になる為に頑張っていた次女は?
妻を、お母さんを亡くし、ただただ悲しみに暮れる事も出来ない状況。お母さんも、育ち盛りの娘たちを、もっとずっと見ていたかっただろう。とにかくやるせない。悲しい。
妻が、専業主婦を軽んじる人達はまだいるけれど、こんなにも変わってしまうのだねと、呟いた。
家庭を持つことで顕著になるけれど、そうでなくても、人は一人で生きていないという事を痛感させられる。自分の身は、自分だけのものではないのだと。
妻は体が強い方ではないし、私だって、2年で10万キロを超える距離を営業で走っているから、事故に遭わないとも限らない。そういう言い方をすれば、何があるかなんて分からないのだが、こう言うことがあると、実感が切なく湧いてくる。
一方で、人は一人で生きていないという事が私の生きる意味になっている事も考える。昨日ムロツヨシが誰かと話している記事を読んでいたのだが、自分の為に頑張るのには限界があるという事を語っていた。
自分の為に頑張る事は、欲の薄い面倒くさがりの私にとってとても難しい事で、限界値はとても低いのだが、幅はあれど、みんな限界は来るのだろう。
かと言って、誰の為に頑張っていいわけでもない。先生が生徒の為に、親が子の為に、パートナーの為に、友人の為に、色々形はあるけれど、それはいつも他者依存と繋がっている。
依存していい相手は限られている。そして、永遠には続かない。今日の知らせのように、いつか、別れは、来る。
だから理想は、誰かの為だけに生きるのではなく、依存先は分散させておくことなのだろう。理想は、そう思う。実際私は妻子にその多くを依存しており、子供の自立は覚悟しているが、妻に先立たれたら一人で生きていく自信がない。
今は出張先のホテルでこれを書いているが、帰ったら妻に聞いてみようと思う。
あえて、あなたの為にも生きたいのだけれど、いいですか? と。
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