私の友人には馬鹿な人も多い。私も馬鹿なので仕方がないのだが、彼女はその中でも飛び抜けて馬鹿だったと思う。
体が弱い。精神力はボチボチある。物事の処理能力は高い。そして、自分を守れない。
生きていれば合う人合わない人がいる。人の悪意に触れることもある。でも彼女は言う。みんないい人だと。こんな自分にみんな本当に優しくしてくれる、と。
一見、いいように思えるが、これは、私から言わせると一面の切り取りでしかない。
彼女はいい奴なので、多分周りが彼女を憎からず思っているのは事実だろう。でも、優しさは隙そのものである。だから、付け込まれているのも事実だった。彼女は、付け込まれている部分は見ないふりをして、みんなをいい人、と言う。愛されている、と言う。
その強烈なまでの意識的な偏りに、気持ちが悪い、そう思ったのを覚えている。
どうしようもないのだ。誰かに攻撃された時、やり返して傷つけても、結局彼女がそれに耐えられない。誰かを傷つける事に耐えられる性格ではない。
彼女には、人を憎む力がない、彼女には、人を嫌う体力がない。人として欠けている。でも、人の悪意を知らないのではない。理解できないのでもない。ただただ必死に見ないふりをしているだけ。結果、自分ですべて背負い込み、体にガタが来て、心にもガタが来て、記憶も曖昧になって、そこまでボロボロになって、はにかみながら、みんな優しいと言う。
聖人には聖人足り得る資質がある。彼女の器では、耐えられない。
もう、周りのせいではない。彼女の弱さが招いた結果である。端から無理がある。
だから、私は彼女がどうしようもなくなりかけて来て連絡してくる時、彼女を馬鹿にして笑っていた。馬鹿だね、ポンコツだねと、笑った。でも、どうにか壊れる前に連絡してきたのは偉いね、と。私には彼女を救えないと、昔から分かっていた。彼女の招いた結果で、彼女の業でしかない。人の業は半端な覚悟で背負えない。
だから、彼女にこんな感じの事を言った。20そこそこの若造にしては頑張ったと思う。
昔話をしても現実は変わらない。だからこそ、安心して、無責任に馬鹿な話をしよう。ありふれた話しを独善的に好き勝手誇張して、言い合って笑おう。
それでいい。
現実には何の影響もない。
だから、そうしよう。
昔の話だが、私が人との距離を考えないといけないと思ったきっかけでもある。近づき過ぎると自分がダメになってしまうと思った。彼女から、自分を守らないといけないと思った。
自分を守れない自分では、彼女と居られないと。この人からは影響を受け過ぎる。
少し前、妻が、何かの拍子に雑談で、なぜこんなに違う私と居るのかと何十回何百回目の質問を私にした時、自分と似ている人とはいられないと返した。そういう人と居た時もあるけれど、それで実感したと。
なぜ? と妻は重ねて聞いてきた。
それで、思い出した。自分の基礎になる部分だったので、せっかく思い出したのだし、書き残しておこうと思った。
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