2023/11/26 負けず嫌いとの相性の悪さ

 妻が、子供たちが何も結果を出せていないと嘆いていた。こんなに頑張って来たのに、勉強も、スポーツも何も、結果が残せていない、と。友達の子は東大に行ったり、スポーツで全国に行ったり、そんな子ばかりで、私は何も言えない、と。

 私は、なんとも思わない。昔から、負けず嫌い値がマイナスなのである。

 どうでもいい。勝ちたいという気持ちを忘れて生まれてきたのだろう。

 勝ったからなに? と思ってしまう。でも、勝ちたい人がいるのは知っているし、その人はその人でいいと思う。その気持ちが分からないだけで、きっとそれはお互い様なのだろう。

 負けず嫌いの人は、分かって欲しい。こう言うのは、それこそ負け惜しみ、ではない。

 本当に、勝っても特に嬉しくない。ゼロではないが、負けた人が悔しがっているのを見ると、負けて、勝って喜ぶ人を称える方がよほど気持ちいいとさえ思える。

 勝ちたいというのは本能である、と言うのであれば、私はその本能が欠けている。

 と言って、私が負け続けの人生を送っているかと言えば、そうではない。勝つ必要がある時には買ってきたと思う。

 ただ、勝ちたい、と言う気持ちが薄い、と言うだけなのだ。

 一方で、妻と話していて、その通りだと思うのは、勝負事で最後に勝つのは勝ちたいと思う人だけだ、という事。勝ちに執着できない人が勝つ事はなかなかできない。

 だから、私もほどほどに勝つ事が出来ても、何事もトップにはならない。

 どちらも必要だと思う。勝つ事で幸福を感じる人、勝つ事に幸福を感じない人。どちらもいなければ、世界は成り立たない。

 その上で、私は、そういう人が必要だと分かっていても、勝ちに執着している人を滑稽だと思ってしまう。勝って、だから何なのだ、と。勝つ喜びを知らないからだ、と思わないで欲しい。努力して、勝ったこともある。努力して負けて、相手の才能に嫉妬した経験も数は少ないがある。その上で、どうしても、それが素直な気持ちなのだ。

 枠が決まっている世界で競い合って、幸福が不幸を前提に成り立っている世界にしてしまって、それが、みんなが幸せになる方法なのか?

 でも、きっと私は勝つ事に拘る人の気持ちを分かっていない。その人に言わせれば、勝つ事が幸福、負けることが不幸、という単純なものではないのかも知れない。

 気持ちが根っこの方で分からないから、話しにならない。

 こうやって、改めて考える機会を得ている、と思う。

 勝ちたい気持ちに対しての自身の考えは、中学生の頃にはある程度固まっていて、それに対してどう考える事も特になかったが、それは個人で話が帰結していたからで、関りを持ち続ける相手とこうやって話していると、その自身の考え方を、改めて社会の中で考え直す機会になる。

 長男の幸せを願う時、私の偏った考え方だけではダメだから、違う考え方を理解しようと初めて思える。

 思えば妻を筆頭に家族を持つという事は、本当に私の世界を広げてくれていると思う。

 広がったらなんなんだと、中学の私は言うかも知れない。だから、それが何なんだよ、と。

 確かに、世界が広がるのも、私の中で方法でしかない。お金を稼ぐのと同じだ。でも、それで愛する人が幸せになる可能性が高まるのなら、その方法を見つけることが出来たという事も幸せな事だ。

 だったら、もうちょっと真面目に働けよと…頭に中で声がした。

 できれば、狭めたままで、目を逸らしたい現実もある。

 仕事は、面倒くさい。と、出張先のホテルで書いているのだからどうしようもない…。

コメント

タイトルとURLをコピーしました