妻が、子供たちが何も結果を出せていないと嘆いていた。こんなに頑張って来たのに、勉強も、スポーツも何も、結果が残せていない、と。友達の子は東大に行ったり、スポーツで全国に行ったり、そんな子ばかりで、私は何も言えない、と。
私は、なんとも思わない。昔から、負けず嫌い値がマイナスなのである。
どうでもいい。勝ちたいという気持ちを忘れて生まれてきたのだろう。
勝ったからなに? と思ってしまう。でも、勝ちたい人がいるのは知っているし、その人はその人でいいと思う。その気持ちが分からないだけで、きっとそれはお互い様なのだろう。
負けず嫌いの人は、分かって欲しい。こう言うのは、それこそ負け惜しみ、ではない。
本当に、勝っても特に嬉しくない。ゼロではないが、負けた人が悔しがっているのを見ると、負けて、勝って喜ぶ人を称える方がよほど気持ちいいとさえ思える。
勝ちたいというのは本能である、と言うのであれば、私はその本能が欠けている。
と言って、私が負け続けの人生を送っているかと言えば、そうではない。勝つ必要がある時には買ってきたと思う。
ただ、勝ちたい、と言う気持ちが薄い、と言うだけなのだ。
一方で、妻と話していて、その通りだと思うのは、勝負事で最後に勝つのは勝ちたいと思う人だけだ、という事。勝ちに執着できない人が勝つ事はなかなかできない。
だから、私もほどほどに勝つ事が出来ても、何事もトップにはならない。
どちらも必要だと思う。勝つ事で幸福を感じる人、勝つ事に幸福を感じない人。どちらもいなければ、世界は成り立たない。
その上で、私は、そういう人が必要だと分かっていても、勝ちに執着している人を滑稽だと思ってしまう。勝って、だから何なのだ、と。勝つ喜びを知らないからだ、と思わないで欲しい。努力して、勝ったこともある。努力して負けて、相手の才能に嫉妬した経験も数は少ないがある。その上で、どうしても、それが素直な気持ちなのだ。
枠が決まっている世界で競い合って、幸福が不幸を前提に成り立っている世界にしてしまって、それが、みんなが幸せになる方法なのか?
でも、きっと私は勝つ事に拘る人の気持ちを分かっていない。その人に言わせれば、勝つ事が幸福、負けることが不幸、という単純なものではないのかも知れない。
気持ちが根っこの方で分からないから、話しにならない。
こうやって、改めて考える機会を得ている、と思う。
勝ちたい気持ちに対しての自身の考えは、中学生の頃にはある程度固まっていて、それに対してどう考える事も特になかったが、それは個人で話が帰結していたからで、関りを持ち続ける相手とこうやって話していると、その自身の考え方を、改めて社会の中で考え直す機会になる。
長男の幸せを願う時、私の偏った考え方だけではダメだから、違う考え方を理解しようと初めて思える。
思えば妻を筆頭に家族を持つという事は、本当に私の世界を広げてくれていると思う。
広がったらなんなんだと、中学の私は言うかも知れない。だから、それが何なんだよ、と。
確かに、世界が広がるのも、私の中で方法でしかない。お金を稼ぐのと同じだ。でも、それで愛する人が幸せになる可能性が高まるのなら、その方法を見つけることが出来たという事も幸せな事だ。
だったら、もうちょっと真面目に働けよと…頭に中で声がした。
できれば、狭めたままで、目を逸らしたい現実もある。
仕事は、面倒くさい。と、出張先のホテルで書いているのだからどうしようもない…。
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