2024/1/31 自分だけならそもそも矛盾と向き合う機会も少ないだろう。回る、回る。でも考えるべきだ。

 家族の為に、それが会社用PCのパスワードで、家族と共に、それが個人PCのパスワードだ。分かっている。依存し過ぎだ。

 でも、なぜダメなのか、心の奥で納得出来ていない。

 ずっと、依存を嫌っていた。自分の思考を他人に任せるような考え方に、ずっと嫌悪感を持っていた。だから宗教にはまる人を理解できなかったし、母が幸福の科学にはまった時も、母だから否定はしなかったが、正直その点は気持ちが悪いと思っていた。

 でも気づけば世界は多くの依存で成り立っていて、生きていく理由を自分の中に待ち続けるのが難しい自分にとって、ただ、生きなければいけないというルールを自分に課した時、その依存前提の世界に存在している事は、苦痛でなくとも、無意味に映っていた。

 妻と結婚して、だから救われた。子供たちに、救われた。生きて行くのがこんなに楽になるなんて、思わなかった。

 頑張る意味を見出せない、と言う、生きて行く中で立ち塞がっていた大きな壁が、溶けて消えた。家族の為に頑張ればいい。頑張らなくていい、という選択肢が消えた、迷いのない世界。他者に依存する事をあんなに嫌悪していたのに、他者に生かされている実感に、救われ、私は家族に依存した。

 幸せだと、思っている。

 そこまで、自分に興味が持てない私だから、妻の自分を生きる力に都度驚くし、妻は自分を生きようとしない私に、都度苛立っているように見える。

 同じように頑張っている人と居たい。違いが辛い。妻は言う。子供たちの人生が私の人生ではない。私は私を生きたい。

 妻の中でも当然ジレンマはあるのだろう。色々言わせてしまっている悲しい。私の中で生まれる嫌悪感は、きっと昔私が依存に対して感じていたものと同種の物だ。妻は間違っていない。妻の言う事はいいと思う。ただ、私の中で、それはどこにも繋がらず、価値がない。妻の幸せに価値はあるが、妻の求める幸せの状況に、私は価値を見出せない。

 私は妻を愛している。愛しているのに、幸せの形を共有できない。

 妻が幸せで居てくれるなら、私も幸せ、と思う。二人だったら、そんなシンプルな関係でいい。可能だと思う。

 でも、子供たちに対して幸せを願った時、幸せの価値観がずれていると方向性がまとまらなくなる。自分をあくまで生きたいという彼女の考え方が、どうしても認められない点が出て来る。頭では分かっている。それも悪い事ではない。むしろ、そうあるべき、と言うのも分かる。でも、でも、子供の事より自分を優先すべきと言うのは、やはり違う。

 でも、彼女がそう生きているのでないのも知っている。子供の事、父の事、色々やってくれているし、なんだかんだと言いながら自分を犠牲にして頑張ってくれている。

 でも、元々そうしたいのではないから、大きなストレスになるのだと思う。

 だから、そのストレスを向けられた時、元となっている自分優先の考え方を憎く思ってしまう。その考え方が根本の業だと感じてしまう。

 逆に、確実にそれが彼女の強さだと思う。生命力であると思う。ここが生きて行く事を目標にした舞台とするなら、私は落伍者で、彼女が絶対的に正しい。

 正しい、間違えている、その価値観に私はNOと言ってきた。

 でも、彼女は生きて行く力に溢れている。どんなに間違っていても、生きて行く上では正しい。

 言葉遊び、のようで、書きながら、芯に近づいている気がする。

 きっと私は、正しさに興味がない。言葉では正しい間違いの話しでないと相手を説得するが、そもそも正しさに興味がないから、正しさを前面に、勝ち負けを付けると言った会話にただうんざりして話を逸らしているだけだ。

 自分が間違えていない、と思っているのは嘘ではないが、私の幸福論の中に、正しい事、は条件ではないのだろう。

 いや、これも何かずれている。私の中の正義、はある。正しさに興味がないのではないな。優しさが、多分私の正義だ。我儘、が悪だ。でも、優しさは時に弱い、弱さに甘んじる人は嫌いだ。我儘が生む価値も大きい。

 何より、我儘な妻を、私は心から愛している。

 惹かれている…欲している? 矛盾している。

 矛盾を内包しているのが当たり前。でもその矛盾が多ければは無純に近づく。迷うし、滞るし、濁る。

 きっとそれも人生だ、そこと向き合っていくのが人生だ、と達観もしてみる。自分個人ならそんなに難しくはない。でも、自分だけならそもそも矛盾と向き合う機会も少ないだろう。

 回る、回る。でも考えるべきだ。

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