2024/1/17 人は平等ではないが、幸福にはなれる

 生まれた瞬間から人は平等ではない。と言う真実は、別に悲観する事でもないように思える。そう言えば、それは持っている人だからこそ言えるのだろうと思われるかもしれないし、実際それも多少あるのだろう。

 自慢ではない。本当に多少。私は容姿も普通で、頭も運動神経も普通。器用貧乏を絵に描いたようなもので、なんでもある程度できるが、ある程度以上になった物はほとんどない。家庭も普通で、収入も今ようやっと平均よりは上だが、特段珍しい程ではない。

 でも、今幸福でない人は、それを羨ましがる事はあるだろうし、だからこそ、さっきの言葉も響かない事もあるだろう。

 でも、尺度を持って欲しいと思う。それぞれで、自分なりの尺度を。人のメジャーで自分を測る事はない。一般的、常識、平均、多数で括られたメジャーはあるが、それは社会で出来る事、出来ない事を教えてくれるもので、誰かの幸福を測るものではない。

 出来ることが多い方が幸せなんだ、と言うのは単なる思い込み、だと思う。別にそれが間違いなのではなく、皆そうだ、と言うのは自分の幸福を人任せにした結果だとしか思えない。

 天上天下唯我独尊、とまで崇高な思想は持ち合わせてはいない。ただ私は、私以上の能力を持った人間を数えきれないほど見てきても、私よりも彼らが幸せだと思ったことは一度もない。彼らは彼らで自分の幸せを掴めばいい。私は今も過去も、十分に満ち足りている。

 お金がなかった日々でも、恋する人に振られた日でも、前歯をぽっきり折った日でも、ダイエットが今一つ成果を上げない今も、私は幸せである。悲しまないのではない、落ち込まないのでもない。でも、それも含めて人生は味であり、その複雑な味わいを堪能している日々が、不幸であるはずがない。

 達観している、と言われることがある。そうだろうか、でも、そう言われるという事は、その人からすればそうなんだろうと思う。

 人に依存していないのでもない。私は家族に大いに依存している。依存が怖くないのでもない。私は彼らを失ったら生きている意味を失う。そういう意味では矛盾して見えるかもしれない。自分の幸せを、私は大いに人任せにしているように見えるのかも知れない。

 でも、それらすべて、私が私の幸福論を基にして選択した結果であり、すべて私の幸福の元である。何かあっても、仕方がないと諦めもつく。

 だから、人は平等ではない、と言うのは単なる事実で、それを悲観する事はない、と思う。早く、自分にとっての幸福の瞬間を知る事だ。自分にとっての幸福を知れば、その為に必要なことが分かるし、それ以外は特に重要ではない事だ。

 でも、とふと思う。私がお勧めするように人が人同士で比較しなくなったら、人にマウントを取って幸福感を得る人は、どうやって幸福になるのだろう。なかなか、マウントを取られて幸福になる人は少ないように思う。同じように、人の不幸を楽しむ人の楽しみはなくなるのだろうか。

 それはきっと、人を殺してはいけません。と同じような事になるのだろう。個々の幸福を尊重しましょうと言いながらではあるが、一方で私は最大多数の最大幸福も大切と思っており、人に迷惑をかけて幸福になろうとする方法は認められない。

 その意味で、やはり人は野放しの自由ではない。

 単純に、他を探せ、としか言いようがない。

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