昨晩も妻ともめる。もめる、と言うか、すれ違いについて22時半から2時位迄。この前朝まで話したばかりだというのに、疲れるな、と思う。
当然、それは妻も同じ、この繰り返しは嫌だ、と思いながら話しているのだろう。
話自体には妻の我儘がぼちぼち含まれていると思うし、それを自分好みの知識で補強して正しさ感を増し味方を作る事で自身を肯定しようとしているように思える。
当然、それは自分も同じ。自分のなりたいようにしかなれない、と言うのは老若男女問わずなのだろう。
昨日息子に言ったのだが、自分の頑張りを主張し出すのはいい事ではない。かっこ悪いし、そもそもそれをしたところで、自分も自分も合戦が始まるだけでいい結果になんてならない。
ではどうしたらいいか。頑張りを主張しなければいけないのは、認めて貰えてないと感じるからだ。承認欲求が満たされていれば、自分を主張しなくて済む。満たされていない、と感じさせてしまっているのだろう。
どうしてもらえない、ああしてもらえないという感情自体が他力本願でしかない、という考えが私の中にはある。自分の事は自分でコントロールを、と。すべて自責と言う程私も出来た人間ではないが、他責が過ぎればやはり色々なことが上手くいかなくなる。ただ、それは妻に言わせればそれが出来れば一緒にいる意味がないらしい。
助け合えるからこそ人は一緒にいる。助け合う必要がなければ一緒にいる意味がない。
あなたが私にそれを求めるならば、例えばそれが出来るようになるかもしれない。でも、それが出来た時に、私があなたと一緒にいる必要があるか私には分からない。
私はその言葉を卑怯な脅迫だと思った。でも、妻にとってそれは真実なのだろう。
仕事が生きる事という彼女のスタンスの中で、家事に時間を費やされるもどかしさも、それが正しいかどうかは別として、正直な気持ちであるだけなのだと思う。
自分に嘘はつくな、と呼びかける本がある。正しくあれ、自分を律しろと言う本がある。バランスをとれ、と言う本もあるだろう。
それが出来れば苦労はない、という気持ちも分かる。
そこに、目指すべき一つなんてない。
正直、妻を手放してあげた方がいいのではないかとも思う。彼女に彼女らしい人生を送らせてあげた方がいいのでは? その方が私も解放されるのでは?
妻は離れたがっているように見える。この首輪が苦しい、この首輪がなければ私はもっと輝けるし、人の役にも立てる。私が私の価値付けをして欲しいのは家族ではなく世界だ。そう切実に叫んでいるように見える。それが本当なら、私はただ私のエゴで愛する人を縛り付けているだけだと、思ったりもする。
彼女のこうなりたい、と言うビジョンは明確になっていて、更に鮮明になってきている。それが彼女の自由意志なのか、私がそう仕向けてきた部分もあるのか、分からない。何でもそうだが、さっきと同じで切り分けられる話でもないのだろう。矛盾したものが混ざり合っていて、混乱する。
彼女は私に成長を求める。自身は成長したいし、それがシンプルに喜びであるし、正義と思っている。
よくしてしまう反論は、それもいい、でも私の考えも間違えていると思わない。正しさはそれぞれにある。否定しない、否定しないで欲しい。
それに答えて彼女は、共感して欲しいのにそれが求められないのは辛い。
平行線が続くと、こんなに辛いなら一緒にいない方がいいのではないか、となってしまう。人に求めてもめてしまうのはほとんどが妻だから、妻は自分がいない方がみんな平和でいいのではないかと思ってしまう。
そういう事では全くないのだが、あぁ、ここまで色々書いたが結局、自分は自分らしくありたい、と言う真っすぐな欲求は、家庭を含めた生活の中で、社会の中で上手くいかなくて、自分らしさを環境に適合させるか、自分らしさが適合する環境に身を置くか、その二つの比重をどう取るか、と言う話しなのかもしれない。
44歳になって、こんな事で悩むんだな。
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