1 1998/10/10 高校時代の手記

 外はやっと梅雨の到来、ざんざかまばらな露の束。窓から見える屋根を伝う滴の流れはしばらくは止まらないだろう。もうすぐ体育祭なのに、また私の出るはずのテニスは卓球に変わりそうだ。止めよ止めよといくら私たちが願っても、雨は自然と止むまで降り続ける。雨は自分から止みはしない。少しは余力を残して一年満遍なく降ればいいものを、雨は一度降り出したらその力が尽きるまで降り続ける。最後の一滴まで、降ることができるまでいつまでだって降り続ける。

  植物だって同じ。一度生えたら伸びる。とにかく伸びる。自分で成長を止めることはない。他の動物だって同じ。うちの犬が自殺したら大事だ。そう考えると自殺なんてするのは人間ぐらいのものではないだろうか。

  私は今まで一度も死にたいなんて思ったことはないが、逆に、今まで一度も生きたいと思ったこともない。何かに感動したり、幸せを感じていたりすることはあるが、生きたいと願ったことはない。テレビや何かを見ていてもそう。「死にたくない」と言っている場面はあっても、死に瀕している場面以外で「生きたい」と言っているのを聞いたことはほとんどない。

  私は小さい頃入院していた時期があって、骨髄炎という病名だったが、同室の子供たちの十人足らずの中で、少なくとも二人は死んだ。どちらとも苦しんで死んだ。私はその時から死というものに鈍感になったのだと思う。今でも死の意味をよく知らない。だが、生きることの意味も、私はよく知らない。なぜ生きているの? と聞かれても、自分でもなぜ生きているのかよく分からない。特に今の時代は情報が溢れかえっていて、求めてもいないごちゃまぜの心理や、どこまで続くか分からない深い人間の真実らしいもの、はたまたそれを含めた人の生きざまそのものなんてものが身の回りに纏わり付いていて、誰かが求めるものではなく自分の求めるものをその中で捜し当てるのはとても困難だ。自分というものが莫大な情報によって押し潰され始め、それに太刀打ちするには私たちの経験は少なすぎる。

 この前、学校で保健衛生講和という題だけでは理解しがたい時間があり、どこかの警察官が来て一時間半ばかり話しをしていった。その内容は彼の経験上の何か感動的な実話だったはずだが、私はそれよりも彼の出だしで言った言葉が気にかかった。

 彼はこう言った。毎日が楽しいですか? 将来幸せになれると思いますか? 多分、そういう人はほとんどいないでしょう。日本では将来幸せになれると思っている人の割合は十人に一人いないんですよ。

 私は、その十人に一人いない一人だった。私は毎日幸せに生きているし、将来だって幸せに生きていると思う。こんなこと、話を聞くまでは珍しくないと思っていた。そして、それを問われることに疑問を感じた。なぜなら、彼の言う幸せ自体私には分からなかったからだ。私の幸せは、毎日の気楽な生活から生まれているのではない。私の毎日もみんなと同じようにそれなりの苦労、悩み、けだるさに包まれてはいるが、私の幸せはその中からも生まれる。不平不満がないわけはない。納得の行かないことは身の回りに溢れているし後悔することだってよくある。だが、それと幸せを見つけることは違う。ある日、めんどうな日々を送っている中できれいな空に気が付く。窓から射し込むあたたかい光りに気が付く。それが私にとって幸せの実感になることもある。そんな微かでも、幸せの実感を積み重ねて行けることは、少なくとも私は幸せだと言える根拠となると思う。不平不満に包まれて、そればかりを気にして、自分で毎日を息苦しいものにしてしまうほどばからしいと思うことはない。一掴みの幸せでも、それを感じているときは幸せなのだ。きれいな空は誰の上にもあり、あたたかい光りは誰の上にも降り注ぐ。

将来のことなんて、問われる以前の問題だ。よく言うように未来は自分で作り上げる。壁があれば壊せばいい。それができないと思っている人に、壊す力がないのではない。壊すのが怖いのだ。大体、どんなに苦しく辛い道程に思えても、自分がどこに幸せを見いだすかわからない。幸せになれないと思っているのではそれを見つけることは困難だろうが、どこにその人の幸せが転がっているか分からないのだ。私だって幸せに生きているだろうと思っていても、実際その幸せな暮らしが他人の目にどう映るかわからない。貧乏で幸せではないように思えるかもしれない。だが、どんな中にでも、私は私の求める幸せを掴んで見せる。幸せの定義もないのに、自分で自分の幸せがどういうものなのか知りもしないのに「幸せにはなれない」なんて下らない。

 これこそ、不必要な情報だと思う。回りがどうのなんて言う必要はないのだ。私たちは自分にとっての幸せという自分の中にあるものでさえも、膨大な情報と微かな問いによって正確に見ることを難しくされている。確かに、今の時代を生きて行くのに外の情報を多く知っておくことは必要だろう。しかし、それは自分という確固たる前提があってこそのものだ。足場もないのにブロックを積み重ねられるはずがない。いくら難しいことでも、足場を固めないことにはブロックを積むべきではないのだ。重要なものの上下を見失ってはいけないと思う。

 私は自分を知りたい。大学の入試問題や、惚れ薬の作り方なんかよりも、自分を知りたい。自分が何を求めているのかが知りたい。それを知るきっかけが外の情報であったとしても、その答えは自分の中にしかない。ただ振り回されるだけの情報なんて、私にとって何の意味もない。邪魔なだけだ。そして、私の人生で私がしてきた経験は私にとってなにより貴重だ。多くの人の人生を知っても、それは実感をもたない。実感をもつのは事実私が経験してきたことだけだ。だから、どんな資料があろうとも、どう変化するか分からない私の将来が予想できるはずもないし、私の生き方はほかの誰にも似ていない。

 死にたくないのならば、生きる目的を知らないのならば、ならばあがくしかない。あがくこともせずにあきらめるなんて、そんな惨めな死に方はしたくない。

 今は情報の時代。情報の氾濫を誇る時代だ。

 そして、情報の氾濫は人の個性を浮き彫りにするとともに、その個性を統一する。小さな枠を大量に作るが、そのすべてを大きな枠で囲ってしまう。そして、その統一を受け入れた人を囃し立て、褒めちぎる。

人は自分で立たなければならない。慰めに支えられてはいけない。自分は何なのか知らなければならない。何を求めているのか知らなければならない。そして、何度も書くように、その答えはすべて自分の中にあるのだ。

  雨は降り続く。

  家の屋根を叩き、地面を叩き、私の心を叩く。そして、地面に吸い込まれ、川に飲み込まれる。しかしそれは、彼らが地面になったのではなく、川になったのではない。彼らは彼らとして地面の中に、川の中にいる。土になるのではなく、土の中で形を変え空に戻る日を待っているのだ。大きな水になるのではなく、大きな水が小さな水によって形作られているのだ。雨の一滴が、自分からその巡りを止めることはない。 一度振り出したら、決して自分から止むことはないのだ。

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