30 2023/10/19 妻の生き甲斐と私の生きている意味について考える。

 妻は仕事を生きがいにしている。違う。仕事は妻の生き甲斐だ、と言う方が正しいのだろう。しているという決定者が妻であるような、どうにかなる話ではない。

 そういう人種なのだ、と彼女は言った。

 しばしば私たち夫婦の中で話される話題である。

 私にとって仕事は生きていく為の手段でしかない。と言えばこれも極論で、誤解されたくはない。仕事に思いが全くないのではないし、それなりにやりがいがあって欲しいとも思う。ただ、手段の枠を出ない、と言うだけだ。

 出張の帰り、妻から送られてきた動画で、男性が本当に好きなことを見つけることの幸せを話していた。妻は仕事をしながらも、自分に役立つ情報を常に集めている。

 時間は有限なのだ。正論過ぎて怖い。

 本当に好きな事を見つけて、それに殉ずる。その生き方を私は否定しないし、かっこいいとも思うし、憧れる部分だってある。

 私の幸せは幸せだと感じる実感の積み重ねであって、幸せの実感を得る手段として好きなことを見つけるのは、効率的な話しでもある。

 が、しかし、幸せの実感は他にも色々なところにあって、私の理想は実感を探す事が得意な人である。見上げれば雲のかかり方が美しい、下を見れば庭に植えた枝垂れ桜の若木が大きくなっている、寝る前に次は藤をこっそり植えてやろうかと画策する、右を見れば妻が旅行の計画を楽しそうにしている、左を見れば長男次男が新しいゲームのキャラクターに関して話している。未来を見れば子供たちがたくさん食べるようになって食費を心配する。今を感じれば雨音のリズムが激し過ぎず、静か過ぎず心地よい、風に何かは分からないが懐かしい匂いが混じっている。

 車のフロントガラスがやけになぜか奇麗、妻が作る食事がとてもおいしい、私が作る料理を喜んでくれる、薪ストーブの火が上手くつく、そういう細かい幸せ拾いが、幸せだ。

 妻にとってそれらが幸せでないというのではなく、私の事を大切でないのでなく、そういう事ではなく、ただ、仕事をして社会で価値が生まれ誰かの役に立つという事は妻の生き甲斐であり、妻はそういう人なのだ。

 人は一人でしか生きられない、よく聞く言葉だが、そのシンプルな言葉でさえ、私達は違う受け止め方をする。

 妻はさっき、死ぬのが嫌、と言うのは一人で死にたくない、と言う事が大きいのではないか、と話していた。大概の場合、人は一人で死ぬ、それは切ない、悲しい、理由はそれぞれかも知れないがとにかく嫌だから死にたくないと感じるのでは、と。

 私は、人は一人で生まれ、一人では死ねない、と考えている。それを説明しようとしたのだが、うまくいかなかった。最後まで妻は納得がいかないようで、平行線になりかけたところでとりあえずお土産に買ってきた生パイを食べようという事になり、子供達も誘ってコーヒーを入れ、ロワイヤルグラッセの甘いパイを頬張った。

 妻に話していて少しニュアンスが伝わりかけたのが、死ぬという言葉ではなく、世界が閉じる、と言う表現に変えた時だ。

 人の世界は生まれた時に発生し、死ぬ時に閉じる。その人の世界でその人は様々なものと出会い、数えきれない人と出会い、触れ合い、感じ、そして死ぬ時にそれらすべてと共にその世界は閉じる。

 だから、人は一人では死ねない。

 私たちが追い出されずにすむ唯一の楽園は思い出である。と言う言葉が思い出される。

 私にとって年を取る事で最大の良さは、この楽園を広く、深く出来る事である。この楽園は目を閉じ、耳をふさぎ、何にも触れあわなければ決して生まれない。

 だから、人は一人では死ねない、と私は考えている。

 一つ一つ考えの違う私たちで、そんな妻だから、私は彼女のサポートをする以外の選択肢がない。日々突き進む彼女を支えるには、ある程度近くにいなければいけないし、かと言って彼女の信念には共感が出来ない。

 彼女が自分をそういう人だから、と言うのと同じで、私もそういう人なのだろう。

 ずるいよなぁとも思うが、ただの役割の違いとも思う。欲を持てない私の代わりに、前向きな欲を一杯もってくれている妻。

 まぁただね、サポート役の私であるけれど、なおざりにしてはいけないよ、位は言っておきたい。あなたがしたくてしているのでしょう? 的な発言は頂けない、とも言っておきたい!

コメント

タイトルとURLをコピーしました